とある日常

日常のあれこれ

考えてみた2

 明日から仕事である。仕事とは回し車を回すことである。学生が思っているほど仕事は高級なものでも、上等なものでもない。その環境で与えられる知識と経験を手にして、目の前にある回し車を回すだけである。私たちは序列関係を頭の中で浮かべてしまうことがある。例えば、コンビニの店員さんや配達員さんをご苦労様と思う傾向にある。けれども、どんな仕事も目の前にある回し車を回すことが中身なのである。その点において、生活と仕事はリンクしている。生活も知識や経験を得て、よりよい生活、お金がかからない生活を享受できるように、仕事も必要とされる知識や経験を通して行う営みである。人間なんて所詮大したことをやっていないのである。

 と、僕は社会人になって気が付いた。人類の進歩は、まさに1億年の歴史が熟成させた石油(エネルギー)の賜物なのである。約22年間の教育を受けて来て、ただ限られた環境で仕事をする。虚偽の扇動ニュースや、著作権に触れないために文章をシャッフルさせるとか、そういう詐欺まがいの行為を優秀な大学出身の方が加担する。一体何のために莫大なコストと時間をかけて教育されてきたのか、そして、一体何のために人生を切り売りして、仕事をしているのか、そういった哲学はなされない。僕たちは社会に取り込まれて、思考停止しながら、嘘で糊塗された「成長」や少ない給料に踊らされる。

 その一方でモノづくりや1次産業で働いている方、3次産業で人を助ける、幸せにする仕事をしている方がいる。そういった方は一般的に給料が低い。どうして社会で大きな役割を担っている人間の給料が低いんだろうか。勿論理屈的には分かる。だけど、これは経済の失敗ではないか。結局不況不況騒いでいるけれど、経済の分配の問題なんだと思う。ひろゆきも言っていたが、変なタレントを起用して広告やTVに何億をかける余力があるなら、社会に貢献している分野に金が流れていく方が最も合理的だ。

 新陳代謝を手掛けるベンチャー企業の担い手が少ないのは無理ないと思う。回し車を回していくことに特化した人間が新しいことを0から始めるなんて、厳しい。ベンチャーの求人を見ると、使命感をもってして、若いうちから能力を開発している人は多く見かけるけど、それでも多くのベンチャー企業は成功しないことが事実だ。アメリカと日本の違いは労働市場が固定的で、天下りしてきたベンチャーキャピタルや周りのサポートが十分な支援をベンチャー企業に施せないというのが定説としてある。僕は門外漢だけど、逆に日本から社会を変えるベンチャー企業が生まれることを期待すること自体甚だ疑問だ。だって、優秀な学生が大企業ランキングの上位を占め、社会に取り込まれていく。また、村社会が厳然とある限り、プレイヤーの担い手とそれを支えるエコシステムが生まれえないのとは当然なのでは。

 でも、いつの日か面白い仕事にたどり着けると信じている。そのためには、本を捨てて世の中の違いを感じ取れるようになりたい。毎日同じ、パターン化された日常だと勘違いするより、自分の感性をもってして、違いを感じ取れるようになりたい。子供のような目をして、ワクワク感を抱ける大人になりたい。明日は監獄暮らしが始まるけど、違いを見つけて楽しみたい。

 

 

今の若者

  若者について考える。若者の◯◯離れという言葉が流行っている。これは昭和の価値と平成の価値に大きな乖離が存在するからである。恋愛離れについて言えば、この平成における、経済のご時世で恋と自分らしさを同居させるのは難しい。経済ゼロ成長時代において、自己の存在意義は自分らしさの追求と他人による承認欲求で満たされる。また、SNSでは強烈な自分語りが行われている。「自分は〜をした、〜こういうことが好きなんだ」、自分らしさの追求を行うことが現代の若者の至福なのである。

 次に車離れについて言及すると、7割の人間が経済的な理由で車は買うことができないというニュースを見つけた。誰もが経済的に車さえ持てなくなってしまったのだ。大人たちは、自らの雇用を守るために、非正規という別枠を設け、不況の調整弁として、若者を扱うようになった。そのくせ、若者が成人式で暴れたり、若者がニートになると、若者を批判するようになる。すぐに世代論や精神論の話が盛り上がる。しかしながら、人間というのは構造的に規定されているものだ。大人たちが謳歌した高度経済成長は彼らが決して優れていたわけではなくて、需要の旺盛な欧米市場をターゲットに、人件費の安い人材で大量製造した結果だ。その証左として、より人件費の安い韓国や中国などが登場した時、日本の製造業は総倒れしていった。今後は欧米のように、付加価値を上げるようなビジネスを創造させていくべきだが、昔の遺産を必死に回している日本には程遠い夢物語だろう。

 将来が確約されていない中で、若者が多様化し、自分らしさを追求することは合理的な手段だ。今日成人式のニュースをみていて思ったのは、儀式やイベントが彼らの楽しむ場、ファッションなんだと思う。経済も成長しない、社会も定常的な中で、彼らは非日常的な祭りを作り出す欲求を持っていて、それがハロウィンや今の派手な成人式、渋谷のカウントダウンを生み出したのではと思う。昭和の人々が楽しんだ価値を若者は享受できなくなった。その代替物として、新たな価値が創出されるのは大人によって邪魔されるものであるべきではない。(僕はきらいですけど笑)。

 

 

 

 

考えてみた

 最初に断っておくと、僕の話は飛び飛びになります。だけど、必ずしも一直線の話ってあるわけないと思うんです。だって、どの事象も地続きで、堂々巡りしているからです。それを社会っていうんですが、日本人に欠けている思考はこの社会という価値ですよね。世間が村単位であちこちに生まれて、その世間を守るために、自分の幸せや家族の幸せを飛び越えて、生きている。システムや組織の上に私たちは幸せに生きていくべきなのに、知らぬ間に、組織やシステムを保存するために、生きるといった本末転倒な運命を受容しているのです。

 最近本を読んで感動した話にゴールドマンサックスは「次世代の子を育てていく」という軸で、奨学金養護学校の建設費を寄付しているそうです。世間を飛び越えて、社会に還元していくという考え方は日本ではあまり身近ではありません。だけど、社会のことを考えることは回り巡って、自分のためや次世代のためになるということを意味するのです。

 僕は逃げ恥ロスで鬱症状をきたしていますが、百合さんが話していたことに同感しました。「私達の周りにはたくさんの呪いがある。あなたが感じているのもその一つ」、日本では、自分や世間を守るために、たくさんの呪いや掟があります。みんなが自分のためや世間のために行動していると、悪循環を生み出して、疲弊していく帰結になるんです。例えば、ショッピングセンターに行けば、安いものが溢れています。生産者のことを考えず、質や物語を軽視し、安さだけを追っていると、結果的に価格競争や質の低下を招いてしまうのです。また、電車が遅延すると、不満を言ったり、車掌を追い詰めるという話もあります。こうやって自分や世間のための行動が呪いを生み出し、周り巡って、自分に襲いかかってくるのです。この呪いで満たされたシステムや組織を維持するんだから、人間が疲弊しないはずがないのです。この疲弊が少子化ブラック企業を招来しているということに誰も気づかないのです。アメリカのニュースを読んでいると、すぐに水道が止まったり、大停電になったという話を目にします。僕はそれに安心した気持ちになるのです。だって、日本人よりよっぽど人間らしいじゃないですか。

 日常を考えてみました。人間の日常の捉え方は多種多様だと思います。多くの人は日常をただの変わらないもので、暇つぶしの対象だと思っていることでしょう。一方で、この変わらない日常に小さな変化を見つけてそれを幸せに変えられる人もいます。あるいは、受身的に、小さな幸せを呼び寄せられる人もいると思います。いずれにせよ、この日常のとらえ方や日常の許容の違いは人生を左右するものだと思います。

 人が何気なく発言する日常は最も大切な価値を包含するものだと思うのです。漢字として、日常を解釈すると、それは変わらない状況という意味になります。言葉というのは、たくさんの違いを刈り取って、一義的なものにする圧力を持っています。例えば、丸くて赤いフルーツはりんごで、一房のりんごはそれぞれ違いがあるものの、言葉でりんごと定義してしまうと、りんごはどれも同じものになってしまうのです。このように、言語的な思考をすると、同義的な圧力が生じ、日常を一義的にとらえてしまうのではと思うのです。

 最近巷を賑わしたSMAPの歌、「世界に一つだけの花」が生まれた背景には、言葉の時代の到来だと思うのです。この世の中に同じ花があれば持って来いよって言いたくなりますよ、ほんと。私たちの脳はどうしても意識的に違いを同じに変えてしまい、本当は変化や違いに富んだ日常を言葉としての日常に変えてしまう恐ろしい能力を持っているのです。

 そして、言葉を突き詰めて生まれたのが都市です。都市というのは、まさにこの言語による魔法がかかり、「同じ」で覆われた「ディズニーランド」だと思うのです。一方で裏の世界では、都市という秩序がある限り、不秩序が多く発生します。この不秩序を取り除くために、疲弊した人間を量産する「デスランド」という実態があるのです。(僕はこのデスランドの地で毎日疲弊しています^^)。消費者である限りは常に便利なディズニーランドにいられるのですが、僕みたいな貧乏で不器用な生産者の人間は一生デスランドに放置されるのですね。金持ちで常に消費者でいられる存在の人は参勤交代制として、デスランドに来てください。そうすれば、過剰なサービスや頑丈なシステムに期待をしなくなりますから。もっと社会を考えろや。

 と、社会に一石を投じるような話をしてたんですが、僕の日常の捉え方に落とし込んでいくと、僕が最も言語の重圧に屈服しそうなんです^^;たぶんたくさんの本を読んできて、頭の中でぐーるぐーるしていると、日常を一義的な法則に当てはめようとするんですね。本っていうのは現実の事象をある法則に則ってまとめたものだからです。読めば読むほど、物事の規則や規定する構造的な仕組みに目がいきやすくなりますが、

それを突き詰めると、人間の人生というのは「死」にたどり着くんですよ。何をやっても何を残しても結局待ち受けるのは「死」というわけで、ニヒリズムという有毒なブラックホールに吸い込まれていくんです。いや、「その「死」という有限な人生を受け入れてこそ、一瞬の人生を輝かせることができるんだ!」と超人になる人も世の中にいますが、はっきり言うと、そ・れ・は強者の論理です^^。

 だから、本を読めば賢くなるというのはうそですね。逆に同じ圧力という罠にはまり、日常を日常と捉えてしまうのです。結局のところ、人間というのは平等に授かるこの日常をどうにか楽しまなければならない。ミクロ的な世界や感覚の世界で日常に小さな変化や幸せを見つけて僕たちは生きていくことが最も幸せな人生だと言えるでしょう。

 と、月並みな表現で締めくくりたいんだけど、そうは思っても、僕みたいにできない不器用な人間もたくさんいるでしょう。僕みたいな考えをしている人はたぶん考えて考えてやっぱり「死」が立ちはだかると思うんです。ニヒリズムに打ち勝つために、自分の世界という殻にこもって、楽して生きようと思えば、普通の生き方(結婚や子育て)はできなくなる可能性が高いです。(この世界がプログラミング大好き!って方なら別ですが笑)この普通の生き方を捨てれば解決ですね^^。だけど、僕は普通の生き方もしたいと思っています。最終的に「死」が降りかかるのに、苦難を受け入れて、世間と折り合っていく。そういう理不尽や辛さを感じるときはいつも「死」が頭の中によぎります。世間と向き合った時に、自分の弱さを受けれ入れて、重圧に押しつぶされそうにもなることが多々あります。だけど、もう前に進むほかないと思うんです。

 これが今の答えなんです。僕は本を読みまくった挙句、頭が病気になり、考えることを止めれなくなってしまいました。そして、考えることを突き詰めた結論として、「死」が立ちはだかる。僕は凡人なので、死を受け入れて、それを力に変えていく「超人」になれません。「死」と隣り合わせの状況で世間では多くの理不尽さや自分の弱さに襲われる。その状況を客観的に見て、僕はいつも僕のことを可哀想で、つまらない人間だと自信を喪失していきます。だけど、突き詰めた結論として、「死」と同時に、もう「前に進む」方法しかないんです。アンビバレンスでわけの分からない結論ですが、「前に進む」というのが最も合理的な判断なんだと最近は思うのです。悲観的になり、自分を殺していくよりは、一旦前に進む。そして、どんな状況でも、自分にとって最も心地の良い環境に持っていく方向に努力する。周りからは批判されたり、身の程を弁えていないと陰口を叩かれるかもしれません。だけど、生きているのは自分なんです。自分がいなくなったり、不幸感じていれば、死んでいる、あるいは世界は存在しないのと同じです。「前に進む」。この方法をとって、次の答えや幸せを得られるかわかりません。だけど、それが一番ましなんです。

頑張ったなと言える生活

 卒業式が遂に終わりました。後6日で社会人です。ぼっち卒業式というのは非常に心苦しい感じでしたね。改めて学生生活を振り返ると、孤独を貫き、我ながら沢山のことを頑張ったなという感じです。

 僕は最初から人生の幸せを掴むのを諦めている戦略を取っています笑。他人と比較すると、外見は良くないし、性格は面倒くさいですし、優れた人と比較すると、凡人です。だから、幸せを掴むというのは構造的に難儀なことなのです。

 人生を投げ出したいとか、開き直ってサイバー空間上に居場所を作るなど現実に向き合うのを諦める戦略もあります。でも、そういうことをしても人生がより悪くなる一途をたどるか平行線をたどるだけだと思っていたので、自分を傷つけながらも、目標を作りながら邁進していきました。勿論、どうせ人間は死ぬんだから目標を高く取っても、変わらないかもしれません。でも、頑張ってみたり、悩んだりすることが人生だと信じていました。

 そうはいっても正直、人生を心から楽しいとは思っていません。だけど、暇つぶしの一貫として読書を精一杯こなしてきました。その結果として、凡人ながら他人よりも知識や思考力を増やすことができました。勿論、それが人に甲乙をつける基準とは思っていませんが、全く能力を持っていない私に少しでも人生を良くする翼を授けるものだと思います。だからこそ、現実と向き合い、人生が壮大な暇つぶしだとしても、読書をするということは生涯の軸なんです。

 僕は時間という資本を大量に投入し、バイトや読書や旅行を徹底してきました。それはそれは孤独な学生生活でした。紆余曲折は沢山ありましたが、「頑張ったな」と言える生活だなと強く思います。