とある日常

日常のあれこれ

考えてみた

 最初に断っておくと、僕の話は飛び飛びになります。だけど、必ずしも一直線の話ってあるわけないと思うんです。だって、どの事象も地続きで、堂々巡りしているからです。それを社会っていうんですが、日本人に欠けている思考はこの社会という価値ですよね。世間が村単位であちこちに生まれて、その世間を守るために、自分の幸せや家族の幸せを飛び越えて、生きている。システムや組織の上に私たちは幸せに生きていくべきなのに、知らぬ間に、組織やシステムを保存するために、生きるといった本末転倒な運命を受容しているのです。

 最近本を読んで感動した話にゴールドマンサックスは「次世代の子を育てていく」という軸で、奨学金養護学校の建設費を寄付しているそうです。世間を飛び越えて、社会に還元していくという考え方は日本ではあまり身近ではありません。だけど、社会のことを考えることは回り巡って、自分のためや次世代のためになるということを意味するのです。

 僕は逃げ恥ロスで鬱症状をきたしていますが、百合さんが話していたことに同感しました。「私達の周りにはたくさんの呪いがある。あなたが感じているのもその一つ」、日本では、自分や世間を守るために、たくさんの呪いや掟があります。みんなが自分のためや世間のために行動していると、悪循環を生み出して、疲弊していく帰結になるんです。例えば、ショッピングセンターに行けば、安いものが溢れています。生産者のことを考えず、質や物語を軽視し、安さだけを追っていると、結果的に価格競争や質の低下を招いてしまうのです。また、電車が遅延すると、不満を言ったり、車掌を追い詰めるという話もあります。こうやって自分や世間のための行動が呪いを生み出し、周り巡って、自分に襲いかかってくるのです。この呪いで満たされたシステムや組織を維持するんだから、人間が疲弊しないはずがないのです。この疲弊が少子化ブラック企業を招来しているということに誰も気づかないのです。アメリカのニュースを読んでいると、すぐに水道が止まったり、大停電になったという話を目にします。僕はそれに安心した気持ちになるのです。だって、日本人よりよっぽど人間らしいじゃないですか。

 日常を考えてみました。人間の日常の捉え方は多種多様だと思います。多くの人は日常をただの変わらないもので、暇つぶしの対象だと思っていることでしょう。一方で、この変わらない日常に小さな変化を見つけてそれを幸せに変えられる人もいます。あるいは、受身的に、小さな幸せを呼び寄せられる人もいると思います。いずれにせよ、この日常のとらえ方や日常の許容の違いは人生を左右するものだと思います。

 人が何気なく発言する日常は最も大切な価値を包含するものだと思うのです。漢字として、日常を解釈すると、それは変わらない状況という意味になります。言葉というのは、たくさんの違いを刈り取って、一義的なものにする圧力を持っています。例えば、丸くて赤いフルーツはりんごで、一房のりんごはそれぞれ違いがあるものの、言葉でりんごと定義してしまうと、りんごはどれも同じものになってしまうのです。このように、言語的な思考をすると、同義的な圧力が生じ、日常を一義的にとらえてしまうのではと思うのです。

 最近巷を賑わしたSMAPの歌、「世界に一つだけの花」が生まれた背景には、言葉の時代の到来だと思うのです。この世の中に同じ花があれば持って来いよって言いたくなりますよ、ほんと。私たちの脳はどうしても意識的に違いを同じに変えてしまい、本当は変化や違いに富んだ日常を言葉としての日常に変えてしまう恐ろしい能力を持っているのです。

 そして、言葉を突き詰めて生まれたのが都市です。都市というのは、まさにこの言語による魔法がかかり、「同じ」で覆われた「ディズニーランド」だと思うのです。一方で裏の世界では、都市という秩序がある限り、不秩序が多く発生します。この不秩序を取り除くために、疲弊した人間を量産する「デスランド」という実態があるのです。(僕はこのデスランドの地で毎日疲弊しています^^)。消費者である限りは常に便利なディズニーランドにいられるのですが、僕みたいな貧乏で不器用な生産者の人間は一生デスランドに放置されるのですね。金持ちで常に消費者でいられる存在の人は参勤交代制として、デスランドに来てください。そうすれば、過剰なサービスや頑丈なシステムに期待をしなくなりますから。もっと社会を考えろや。

 と、社会に一石を投じるような話をしてたんですが、僕の日常の捉え方に落とし込んでいくと、僕が最も言語の重圧に屈服しそうなんです^^;たぶんたくさんの本を読んできて、頭の中でぐーるぐーるしていると、日常を一義的な法則に当てはめようとするんですね。本っていうのは現実の事象をある法則に則ってまとめたものだからです。読めば読むほど、物事の規則や規定する構造的な仕組みに目がいきやすくなりますが、

それを突き詰めると、人間の人生というのは「死」にたどり着くんですよ。何をやっても何を残しても結局待ち受けるのは「死」というわけで、ニヒリズムという有毒なブラックホールに吸い込まれていくんです。いや、「その「死」という有限な人生を受け入れてこそ、一瞬の人生を輝かせることができるんだ!」と超人になる人も世の中にいますが、はっきり言うと、そ・れ・は強者の論理です^^。

 だから、本を読めば賢くなるというのはうそですね。逆に同じ圧力という罠にはまり、日常を日常と捉えてしまうのです。結局のところ、人間というのは平等に授かるこの日常をどうにか楽しまなければならない。ミクロ的な世界や感覚の世界で日常に小さな変化や幸せを見つけて僕たちは生きていくことが最も幸せな人生だと言えるでしょう。

 と、月並みな表現で締めくくりたいんだけど、そうは思っても、僕みたいにできない不器用な人間もたくさんいるでしょう。僕みたいな考えをしている人はたぶん考えて考えてやっぱり「死」が立ちはだかると思うんです。ニヒリズムに打ち勝つために、自分の世界という殻にこもって、楽して生きようと思えば、普通の生き方(結婚や子育て)はできなくなる可能性が高いです。(この世界がプログラミング大好き!って方なら別ですが笑)この普通の生き方を捨てれば解決ですね^^。だけど、僕は普通の生き方もしたいと思っています。最終的に「死」が降りかかるのに、苦難を受け入れて、世間と折り合っていく。そういう理不尽や辛さを感じるときはいつも「死」が頭の中によぎります。世間と向き合った時に、自分の弱さを受けれ入れて、重圧に押しつぶされそうにもなることが多々あります。だけど、もう前に進むほかないと思うんです。

 これが今の答えなんです。僕は本を読みまくった挙句、頭が病気になり、考えることを止めれなくなってしまいました。そして、考えることを突き詰めた結論として、「死」が立ちはだかる。僕は凡人なので、死を受け入れて、それを力に変えていく「超人」になれません。「死」と隣り合わせの状況で世間では多くの理不尽さや自分の弱さに襲われる。その状況を客観的に見て、僕はいつも僕のことを可哀想で、つまらない人間だと自信を喪失していきます。だけど、突き詰めた結論として、「死」と同時に、もう「前に進む」方法しかないんです。アンビバレンスでわけの分からない結論ですが、「前に進む」というのが最も合理的な判断なんだと最近は思うのです。悲観的になり、自分を殺していくよりは、一旦前に進む。そして、どんな状況でも、自分にとって最も心地の良い環境に持っていく方向に努力する。周りからは批判されたり、身の程を弁えていないと陰口を叩かれるかもしれません。だけど、生きているのは自分なんです。自分がいなくなったり、不幸感じていれば、死んでいる、あるいは世界は存在しないのと同じです。「前に進む」。この方法をとって、次の答えや幸せを得られるかわかりません。だけど、それが一番ましなんです。