とある日常

日常のあれこれ

今の若者

  若者について考える。若者の◯◯離れという言葉が流行っている。これは昭和の価値と平成の価値に大きな乖離が存在するからである。恋愛離れについて言えば、この平成における、経済のご時世で恋と自分らしさを同居させるのは難しい。経済ゼロ成長時代において、自己の存在意義は自分らしさの追求と他人による承認欲求で満たされる。また、SNSでは強烈な自分語りが行われている。「自分は〜をした、〜こういうことが好きなんだ」、自分らしさの追求を行うことが現代の若者の至福なのである。

 次に車離れについて言及すると、7割の人間が経済的な理由で車は買うことができないというニュースを見つけた。誰もが経済的に車さえ持てなくなってしまったのだ。大人たちは、自らの雇用を守るために、非正規という別枠を設け、不況の調整弁として、若者を扱うようになった。そのくせ、若者が成人式で暴れたり、若者がニートになると、若者を批判するようになる。すぐに世代論や精神論の話が盛り上がる。しかしながら、人間というのは構造的に規定されているものだ。大人たちが謳歌した高度経済成長は彼らが決して優れていたわけではなくて、需要の旺盛な欧米市場をターゲットに、人件費の安い人材で大量製造した結果だ。その証左として、より人件費の安い韓国や中国などが登場した時、日本の製造業は総倒れしていった。今後は欧米のように、付加価値を上げるようなビジネスを創造させていくべきだが、昔の遺産を必死に回している日本には程遠い夢物語だろう。

 将来が確約されていない中で、若者が多様化し、自分らしさを追求することは合理的な手段だ。今日成人式のニュースをみていて思ったのは、儀式やイベントが彼らの楽しむ場、ファッションなんだと思う。経済も成長しない、社会も定常的な中で、彼らは非日常的な祭りを作り出す欲求を持っていて、それがハロウィンや今の派手な成人式、渋谷のカウントダウンを生み出したのではと思う。昭和の人々が楽しんだ価値を若者は享受できなくなった。その代替物として、新たな価値が創出されるのは大人によって邪魔されるものであるべきではない。(僕はきらいですけど笑)。